白磁への道から

 
会津藩磁器と藩営製陶所の成立
会津藩は安永6年(1777)に本郷村から優良な陶石が発見されたのを機会に江戸の陶工近藤平吉を磁器開発の瀬戸方棟梁として招いた。瓦役所の職人、佐藤佐吉と長男円次、次男伊兵衛の三人もその門弟となって研究を続けたが平吉の指導するのは染付風の瀬戸焼と楽茶碗を造る程度であったため、天明年中(1781〜1788)に解職された。これに触発された佐藤伊兵衛は、自ら磁器の開発を志し先進窯業地視察を藩庁に幾度か願い出て、許可が出されたのは、寛政9年(1797)であった。伊兵衛は、藩庁から路銀3両を借りて同年9月に出立し瀬戸・美濃・京都の窯業地を視察して大阪の会津藩蔵屋敷御用商人 布屋淋兵衛に会い会津藩御用達商人の林和右衛門よりの書状を届けた。書状の内容は伊兵衛が陶器開発のため鍋島藩の磁器焼成技法の習得が目的であり、応分の協力を願いたいという内容であった。ちなみに布屋淋兵衛は鍋島藩の御用達も担っていることを眤懇の間である。林和右衛門の依頼に応えて布屋は鍋島藩の菩提寺である高伝寺の住職に紹介状を書いてくれて寺男として住み込むことが出来た。その滞在は、2、3ヶ月位であったと思われるが、その間寺の用事にこと寄て窯場に足を向けて原料の陶石と登窯の構造や製造工程などを見聞出来た。藩では寛政10年(1798)帰国した伊兵衛の現地にて見聞報告と磁器焼の技術を得たことの書申によって翌11年4月に白磁製造卸製役場を新設、伊兵衛を瀬戸棟梁に任命。次ぎに翌12年4月に有田式の磁器用達連房式登窯を築いて周辺各地の土石を調合し試焼を続け10月初めて白磁を造ることが出来現在に至る。
 
 

今月の窯元
宗像窯
【むなかたがま】
鉄釈流し掛け大壺
時代 江戸期
作者 宗像窯
法量 高さ 60.0cm
胴径 150.0cm
口径 27.0cm
先祖宗像出雲守式部は福岡県生れの宗像宮の布教師であった。古くはこれら布教師の生計は自らの工夫によって得なければならなかったので、出雲守式部はこれを製陶業とし、備前焼で修行し、体得した。
 東北地方を目指した出雲守は会津本郷の陶業を見聞し、自己の技術も生かすことができ、布教活動にも好適と考え、宗像神社を建立して、布教活動をはじめると共にその生計を陶業に依存。この窯元の先祖がこの地にきてから約百年間は布教が主で陶業は生計のたしであった。文政の頃(1818〜29)当主となった八郎秀延は陶業の技術に優れ、神官を辞して宗像窯を創設し、本格的に製陶業を始めました。これが宗像窯の初代。
 かくしてこの窯元にも栄枯盛衰もありましたが5代目の豊喜は特に技術的に優れ、この窯元を隆盛に導き、6代目豊意の時代には民芸家柳宗悦・陶芸家浜田庄らの激励を受け、当主および長男亮一が一層焼き物づくりに精進して昭和33年ブリュッセルの万国博覧会でグランプリを獲得する快挙をなしとげた。

宗像蒲参考ページ
 
富三窯
【とみぞうがま】
花草文四段重
時代 明治中期
法量 高さ 29.0B
竪 16.0B 横 16.0B
 富三窯は会津焼川南窯として御弓新田(現新町の一地区で1634年会津藩主保科正之公が弓隊をこの地に配し開拓させた集落地)に現存する唯一の磁器の窯となり川南窯随一の名窯扇寿軒佐竹富太郎の次男富三郎が明治5年(1872)、分家して富三窯を開窯した。 
明治、大正、昭和にかけて当時の文豪俳人等と交流があり、遺作資料等が数多く残されている。瀬戸細工場の建物は江戸時代後期の土蔵で会津焼き磁器の細工場として唯一の家屋。そこでは今もロクロをひいて瀬戸作りにセイを出している。
現在の当主である四代目佐竹富三氏は、日本原産の花椿をモチーフとして、全国的に熱心なファンをかかえている。

富三窯参考ページ
     


HOME  常設展示  企画展示 お問い合わせ